介護とは何か? 介護をする上で大切な考え方

 
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介護とは何か?介護をする上で大切な考え方

自分のやっている介護は本当に正しいのだろうか?
そもそも「正しい介護」ってあるのだろうか?

このコンテンツでは、自分自身の介護に悩む人
に向けて参考になればと、「介護とは何か?」
について「風の便り」の目指す介護の方向を書
いてみました。

「ふ〜んこんな考え方もあるのかぁ」と気楽な
気持ちでご覧くださいね!


 
@ごあいさつ
 
Aなぜ「楽しい介護」なの?
 
B介護とは「生きたい」を支えること
 
C介護とは「暮らす」を支えること
 
D介護とは「きっかけ」になること
 
E介護とは「寝たきりにしない」こと
 
F介護とは「尊厳を守る」こと
 
G介護とは「ありがとう」を言いあえること
 

@ごあいさつ

ホームページをご覧の皆様、はじめまして。

山口県岩国市で小規模デイサービスを運営している藤本です。

私は23歳の時に介護の世界に足を踏み入れました。初任者研修(ヘルパー2級)などの資格を取ってから現場に入ったのではなく、 障害者の温泉旅行ボランティアをきっかけに介護という仕事を知り、大学卒業後の就職のあても無かったことから、「介護でもやってみようかなぁ…。」という程度の気持ちで介護を始めました。

それ以来この仕事の楽しさにハマってしまい、興味本位で6つの職場(訪問入浴・グループホーム・老人保健施設・デイサービス・訪問介護・派遣職員)を渡り歩きました。 途中、「新しい介護」という新鮮な考え方に触れる機会も頂きましたが、私が働いた施設は、お年寄りを十把一絡げに扱う様なところで納得できないことも多々ありました。 「自分が納得できる仕事をするには自分で独立するしかない…」と考え、 7つ目の職場として「風の便り」を立ち上げました。独立後にも人手不足による事業休止を経験するなど、紆余曲折がありながら、あしかけ22年間に渡り介護の世界にお世話になっています。


この22年の間に介護をめぐる環境は大きく変わりましたが、 介護の現場は3Kの仕事と言われ、敬遠されがちなことは変わっていません。

そして、介護を仕事としてない人にとっても、将来自分が介護を受けることに不安がある人も多いと思います。

しかし、介護の現場を経験した人にとっては、大変さの中にも、楽しさを見いだせる仕事だと思う人は少なくないはずですし、 介護を受けることは恥ずかしいことではないというのは言うまでもありません。

このコンテンツでは、私が現場で出会ったお年寄りや介護の先駆者たちから学んだことをもとに、 「デイサービス風の便り」流の「介護が楽しくなる考え方」について書いていきたいと思います。

そして、当然ですがこれから書くことが介護のすべてではありませんので、どうぞ気楽な気持ちで読んでみて下さいね。

介護に対する見方や考え方を少し変えれば、介護は本当は楽しい仕事であることを知ってもらうとともに、 日々の介護が楽しくなるヒントを1つでも見つけてもらい、 また将来の介護を受けることへの不安を少しでも和らげることが出来ればこんなに嬉しいことはありません。

さあ、一緒に、楽しいケアをはじめましょう!


 
 

Aなぜ楽しい介護なの?
 

このコンテンツでは、そもそもなぜ「楽しい介護」なのか?について考えてみたいと思いますね。

いきなりですが質問です。

いま介護の現場で働いている皆さんは、自分のやっている介護は"正しい"と思っていますか?それとも"間違っている"と思っていますか?



ちょっと答えるのが難しい質問でしたね。同じような介護をやっていても"正しい"と答える人もいれば、"間違っている"と答える人もいるでしょう。

それではもうひとつ質問です。

いま介護の現場で働いている皆さんは、自分のやっている介護は"楽しい"ですか?それとも"楽しくない"ですか?





これなら少しは答えやすいかもしれませんね。

なぜなら、楽しいかどうかは"私"しか分からないのですから。


 ■正しい介護って何?


介護保険が始まって20年が過ぎました。団塊の世代が75歳を迎える2025年問題に向けて「走りながら考える」とはよく言ったもので、 老人保健施設やグループホーム、小規模多機能施設など、厚生労働省の考えた制度は沢山ありましたが 「そこでどんな介護をするのか?」という肝心の介護の中身についてはほとんど議論されることはありませんでした。

 
しかしながら、これまでに家族の介護に携わったことのある人も介護を仕事としている人も、一回や二回は自分自身のやっている介護について 「私のやっている介護は本当に正しいのだろうか?」と疑問や不安を感じたことがあるはずです。
 
実は医療と違って歴史の浅い介護には国民のだれもが納得できる"正解"がありません。

介護保険が始まった当初に比べれば、現在は介護に関する書籍が多く出版されていますが、その中身は千差万別で、どれを信頼したら良いか分かりません。

それもそのはずです。国としてどういった介護を目指すという方向性も定まっていないのですから。 そしてこれからも、国を挙げて「目指すべき介護」の中身について議論になることはなさそうです。
 

そのような環境の中で、冒頭の質問のように「あなたのやっている介護は正しいですか?」に答えるのは少し無理があるでしょう。

"人体"に関わる 医療には、"治る"とか"治らない"の判断基準があります。 医学的に考えれば、治るのが正しくて、治らないのが間違いだとも言えます。

それに対して介護は千差万別の"人生"に関わっています。

ですから、「あなたのやっている介護は正しいか?」と聞かれて、自信をもって「正しい」と答えられる人はあまりいないと思います。 なぜなら、同じ生活習慣、同じ性格、同じ経歴の人はいないのですから。

それでも、目指すべき介護の方向が知りたいと考えるなら、"正しい"か"間違いか"とは異なる判断基準を持つ必要があります。

果たしてそんなものはあるのでしょうか?


 ■これからの介護は「楽しさ」を基準に考える


私たちのデイサービス「風の便り」は、

『そうだ 楽しいケア、はじめよう。』

とキャッチコピーをつけています。

私は、15年前に独立するときに、「自分が納得できる仕事をしたい」と思い独立しました。 これは「自分が楽しいと思える仕事をしたい」と同義語です。

だって嫌ですよね…人生の1/3の時間を占める仕事が楽しくないなんて…

そして、そんな気持ちで仕事をする介護職に介護を受けるお年寄りにとって、その時間が楽しくないことは容易に想像できます。 その時間は毎日デイサービス通う人なら人生の1/3、入所施設なら人生そのものです

今介護の現場で働いている皆さんは、自分のやっている仕事が"楽しい"ですか? 皆さんの介護を受けているお年寄りは"楽しそう"ですか?



わたしたちの考える「目指すべき介護の方向」を知る新しい判断基準は、

介護する側も介護を受ける側も"楽しい"か"楽しくない"か

です。 そして「楽しさ」の価値基準は、人生に関わる介護と同様に千差万別ですから、 私たちの考える「楽しさ」とあなたの考える「楽しさ」は違って当然です。そして介護を受けるお年寄りにとっても「楽しさ」の基準が違うことも当然と言えます。


 ■介護を楽しくする考え方

私が介護の世界に入って22年が過ぎました。雇われる立場で7年、独立して15年です。"楽しい"介護も"楽しくない"介護も経験してきました。

独立した経営者と言っても個人商店のような小さな事業所ですから、今も毎日現場でお年寄りに関わっています。

これからお伝えするのは、私たちの考える 「介護を楽しくする考え方」です。

どうぞ気楽な気持ちでご覧くださいね!


 
 

B介護とは「生きたい」を支えること
 

■「生きたい」と「死にたくない」


ここでは似たような意味を持つイメージのある2つの言葉について考えてみたいと思います。

"生きたい"と "死にたくない"

皆さんはこの2つの言葉から何をイメージしますか?



参考までに風の便りのミーティングで出た答えは…

"生きたい"のイメージ
 ・希望・元気な人・一緒に・未来・輝かしい・前向き

"死にたくない"のイメージ
 ・否定的・絶望に向けて・何かに必死にしがみつきたい・わがまま
 ・生きたいけど生きられないから死にたくない


"生きたい"と "死にたくない"を両方言ってる人もいる…なんて意見もありました。


"死にたくない"という言葉の代表的なものは"病院"ですね。

"死にたくない"から受診をし、検査をし、治療をするのです。

他に"死にたくない"にあたるものは、例えば「○○に良い」と テレビで紹介された食べ物が次の日にはスーパーで売り切れるといったような行き過ぎた健康志向もそうでしょう。

今でいうなら"コロナウイルス"で自粛をしない人に対する"誹謗中傷"も"死にたくない" という思いが強すぎるが故の行動かもしれません。

 "死にたくない"から病院へ行く。
 "死にたくない"から健康志向になる。
 "死にたくない"からコロナで自粛しない人に対して誹謗中傷をする。


では"生きたい"はどういった言葉で使われるのでしょうか?

 もっと自由に"生きたい"
 認知症や障害になっても自分らしく"生きたい"
 やりたいことや好きなことをやって"生きたい"

この2つには明確な違いがあるのです。それはいったい何でしょうか?

 

■「希望」か「怖れ」か



それは"希望"から出た言葉か "怖れ"から出た言葉かという違いです。

もちろん"生きたい"は"希望"から出た言葉で "死にたくない"は怖れ"からでた言葉です。 2つの言葉を介護の場面に当てはめてみましょう。

 好きなものや美味しいものを食べて"生きたい"
 認知症や障害になっても自分らしく"生きたい"
 病気があるけど毎日を楽しく"生きたい"

 死にたくない(転びたくないから)からいつもベッドにいる。
 死にたくない(誤嚥したくない)から流動食ばかり。
 死にたくない(怪我をしたくない)から包丁は使わない。

どうでしょうか? "生きたい"には自分を大切にして且つ前向きな意味が感じられますよね。

対して"死にたくない"には恐怖から大切なものを失って後ろ向きな意味が感じられます。

2つを比べてみると "希望"から出た"生きたい" の方が"怖れ"から出た"死にたくない よりも人生が楽しそうな気がしませんか?

病院へ行くことや健康志向になることが悪いのではありません。治療の必要があるときは病院へ行くことも大切ですし、食べ物に気を遣うことも必要です。

しかし、病院(死にたくない)を退院すれば そこは生活(生きたい)の場のはずです。

つまり

"死にたくない"="病院"

"生きたい"="病院以外の生活の場"

といえます。

"病院以外の生活の場"とはもちろん"介護の場"のことです。"介護の場"で"死にたくない" という志向になれば、生活の場を病院にしてしまうのと一緒です。

それはやっと病院から退院できたと思ったのに、そこにまた病院があった(笑)という笑い話のような悲しい話です。

ですから、"生活の場"で行われる介護は、"死にたくない"より"生きたい"を支えることがとても大切なのです。

実は私がこう考えるようになったきっかけはある一つの本にあります。
その本とは、「介護職よ、給料分の仕事をしよう」 (雲母書房)です。

☆生活とリハビリ研究所三好春樹さん(理学療法士)が2008年に出した本です。 その一節にこう書いてあります。


『アジアは生きたい、生きたいと言っている。ヨーロッパは死にたくない、死にたくないと言っている』
〜中略〜
だから「死にたくない」ために、老人がバンダナを巻いてエアロビクスに励み、みのもんたの番組を見ては食品の買い占めに走る。これは不健康ではないか。
〜中略〜
たとえどんなに貧しくても「死にたくない」よりは「生きたい」のほうが健康だ。生きるのに必死な人はエアロビクスも納豆の買い占めもしないだろう。
〜中略〜
私たちは「生きる」ケアをしたい。「死にたくない」ケアをするのは嫌だ。
介護予防、筋トレ、脳トレ…、みんな「死にたくない」に迎合したものではないか。
私たちは生きていても仕方がない、と感じていた人が、もう1度この身体で生きていこう、と思うようなケアがしたいのだ。


ちなみに、「風の便り」のミーティングの際に、「どちらの生き方を選ぶか?」を聞いたら、6人全員が"生きたい"を選びました。

皆さんだったらどちらを選びますか?


 
 

C介護とは「暮らす」を支えること
 

■医療と介護の違い


「楽しい介護とは何か?」を考える上では、医療と介護の違いを理解しておくことも大切です。

何のために医療があるのか?と問われれば、「治す治療する」為、という答えになるのは明らかです。

では介護はどうでしょう。何のためにあるのでしょうか?

医療の目的      介護の目的
治す   ⇔    【    】
治療する ⇒    【    】


人生で医療を受けたことがない人はいないでしょうが、介護を受けたことのない人はほとんどだと思います。 浮かんでくるイメージはは、「お世話をする」とか「オムツを変える」とか「食事を食べさせる」位でしょう。

それは決して間違いではありませんが、「目的=何のために?」と考えるとちょっと違うかもしれません。 医療が

治す治療する

ためにあるとするならば、介護は

【暮らす】【生活する】

ためにある、といった言葉の方がしっくりきますね。

そうです。「オムツを変えたり」「食事を食べさせる」といった具体的なことの先には 【暮らす】【生活する】 があります。

医療=病院=治療の場=【治す】 【治療する】

介護=在宅=生活の場=【暮らす】 【生活する】


ここを皆さんぜひ頭に入れておいてくださいね!

微差が大差といいます。医療と介護の違いを知っておくだけで、残りの人生が楽しいか楽しくないかに大きな差がでるのです。

 

■リハビリスンドラン症候群を知っていますか?



医療と介護を間違えてしまうケースについて一つ例を挙げたいと思います。

これは本当によくあるのですが、病気で障害になり退院後も治療(リハビリ)を続けているケースがあります。

もちろんケースバイケースというのはありますが、病院を退院するということは、ほとんどの場合が、医学的にはもう治療の必要がないということになります。

家に戻ったということは、これからは【暮らす】 【生活する】 を中心に考えましょう、 ということのはずです。

リハビリが悪いということではなく、退院して【暮らす】 【生活する】場に 移ったのにリハビリしかやっていないことが問題なのです。

間違えやすいのが、そのリハビリは何のためにやってますか?ということですね。

最初は、リハビリやって元気になって社会復帰するのが目的だ!と意気込んでいた人がいます。ところが、なかなか効果が表れないと、 「まだリハビリが済んでない」「まだリハビリが済んでない」とリハビリをすることが目的に変わってしまうのです。

理学療法士の松本健史さんはこれを『リハビリスンドラン症候群』と名付けました。 

いや…笑い話のようで、結構深刻ですよ。

病院という医療の場では、リハビリ(治療)が【目的】になります。 そしてリハビリが終われば、晴れて退院という【結果】がついてきます。 しかし 生活という介護の場では、リハビリ(治療)は【目的】ではありませんでしたね。介護の場の【目的】は【暮らし】【生活】でした。 では介護の場の【結果】は何でしょうか?

実は、介護の場の【結果】が【リハビリ】なのです。

【暮らす】【生活する】楽しんでいた【結果】が【リハビリ】になっていたということになります。 この【暮らす】【生活する】の中身については別の項目でお伝えするのでここでの説明は省略しますが、 それが、【リハビリ】することが【目的】になってしまっては、本末転倒ですよね。

80歳90歳にもなれば、お元気な方でも明日の命さえ分かりません。

20数年介護の仕事をやってきて感じるのですが、リハビリを目的にすることが悪いとまでは言いませんが、それだけで人生を終えるのも何か寂しくないでしょうか?。

それよりも毎日の普通の【暮らし】 【生活】 を楽しむことの方が幸せではないのでしょうか?

この程度のこと…と思うかもしれませんが、

『微差が大差』

です。



今は元気だから関係ない…そう思っていませんか?

いやいやいや…

今から知っておいて、将来介護してくれるであろう相手に伝えておかないとその時になったらもう遅いんです。
だってどんな病気になるかも、どんな認知症になるかもわからない(笑)。伝えたいことが伝わるかもわからないのですから。

まさしく『微差が大差』です。


 
 

D介護とは「きっかけ」になること
 

■介護の「介」ってどういう意味?


医療の 「治す治療する」 に対して、介護は 【暮らす】【生活する】 を支えることであることは分かりました。

しかし介護は、 【暮らす】【生活する】 を支えるために 「オムツを交換する」「食事を食べさせる」「お風呂に入れる」といった「お世話をする」 といった考え方だけでは足りないところがあるのです。

ここで視点を少し変えてみましょう!



皆さん、介護という字の「介」の意味について考えたことはありますか?

「介護がお世話では無いというなら、一体介護とは何か?」という問いに対するヒントは実はここに隠れています。

【   】介

介護の「介」を説明する漢字2文字の言葉です。

【   】に入る漢字一文字を考えてみましょう!



分かりましたでしょうか?

参考までに「風の便り」の研修で出た答えを挙げてみましょう…


・あたたかい
・おせっかい
・やっかい(笑)

漢字って言ったのに(笑)
でもどれも当たっている気がしますね。

・あたたかい仕事
・おせっかいをする仕事
・やっかいな仕事

でもここでは不正解です(笑)

それでは、これを参考にもう1度考えてみてください。

大喜利ですよ…いや、まじめに考えてください(笑)



分かりましたでしょうか?

正解は

【媒】介(ばいかい)です。

もうずいぶん知られてきたから正解した人もいそうですね。

【媒介】とは、

あるものを通して、もう一方のあるものを存在せしめる【主役・主人公にする】こと=【きっかけ】

これを介護という仕事に当てはめると、

あるもの      ⇒ 介護する人
もう一方のあるもの ⇒ 介護される人

となります。

介護って、認知症や障害のある方をお世話する仕事です。 先程も出ましたが、なんだか、あたたかい仕事ですよね。 老いや病気で認知症や障害になった方は心身に不自由を抱えています 。例えば、お風呂に入る、食事をする、排泄をする、といったことも元気な方の様にはできません。 だからこそ介護という仕事があるのですが、認知症や障害がある方はすべてにお手伝いが必要なのでしょうか?

そんなことはないですよね。

例えば脳梗塞左麻痺の方なら、右手や右足は動きます。右利きの方なら食事はご自分で出来ますよね。

また、認知症で今いるところや今日が何月何日かも分からない。でも昔から慣れ親しんだ普通のお風呂なら、 ここがどこかはわからなくても、身体に染み付いた感覚でお風呂には入ることが出来る。

そうです、認知症や障害があるからと言ってすべてが不自由なわけではありません。 認知症や障害の程度によって、

出来るところ・良いところ・残された力(残存機能)

は必ずあるのです。

介護は、ただ認知症や障害のある方の「お世話をする」仕事ではありません。 「お世話をする」介護の主役は介護をする側です。

そうではなくて、介護される人を【主役・主人公】にするために その方の【出来るところ・良いところ・残された力(残存機能)】を引き出す【きっかけ】を作る仕事なのです。

 

■ジュウゼロカイゴはやめよう!


老いや病気で認知症や障害になると何もできないと思われがちですが、 実はそうではありません。

認知症や障害の程度によって、不自由になることが違うだけなのです。

認知症になって今日の日付や場所がわからなくなっても、家事や炊事、染み付いた生活習慣など、長年繰り返してきた行為は出来るという人はたくさんいます。

障害があっても、少しの工夫があれば食事や排泄、入浴等に支障がない人もたくさんいます。

認知症や障害のある方を介護するときにやりがちなのが、

10か0か?

で考えてしまうことです。

要するに、



【10】=自立して何でもできる(以下、自立)か、

【0】=すべてにおいて介助(お世話)が必要(以下、全介助)か



という二者択一の考え方です。「ジュウゼロカイゴ」とも言います。

こういう考え方で介護をしているとどうなるのでしょうか?

ここでは自立については省略しますが、全介助ということは、 【出来るところ】 【良いところ】 【残された力】も無いということですよね…

ひどくないですか?…笑

そんなはずはないですよね。

私の経験でいえば、認知症でも障害があってもターミナル(終末期)でも

【出来るところ】 【良いところ】 【残された力】もない方は一人もいませんでした。

足の力が無ければ、足をついてつっかえ棒の役割だけでも十分じゃないですか?

自分の名前がわからなくなっても笑ってくれるだけでも十分じゃないですか?

皆さんが認知症や障害のある人の 【出来るところ】 【良いところ】 【残された力】に気付いてないだけなんです。

この 【出来るところ】 【良いところ】 【残された力】を専門的には【残存機能】といいます。

認知症や障害があると何もできないと決めつけ、すべて 【お世話】 するのではなく、【残存機能】に気づき 【暮らし】に活かす 【きっかけ】をつくれるのが介護職なのです。




 

■自己決定より共同決定を


また、こんなことも言えます。

老いや病気で認知症や障害になり、介護を受けるようになるとありがちなのが、 【主人公・主役】であるはずのご本人が隅っこに追いやられていることがあるということです。

介護する人の意向で、ケアマネージャーさんの意向ですべてが決まっているということがあります。もちろんそれは介護保険の趣旨に反しているのということもありますが、やはり残念ですよね。

ではどうすればよいのでしょうか?

じゃあ 自己決定を大切にしますという人がいます。

確かに 自己決定もとても大切ですが、それはそれでどうかなあ…というのが私の考えです。 欧米と比べて自己主張できない日本人(特にお年寄り)には、完全な 自己決定は向いてないですね。

「どうしますか?」と聞いた挙句に結局、「あんたらに任せるよ」という…(笑)

それよりも、一緒になって悩んで決めるという 共同決定が良いですね。



自分一人の意向で決めるのでもなく、他人の意向で決めるのでもなく、介護職が 【きっかけ】となって一緒になって悩んで【 共同決定】する。



長年介護の現場で働いてきて、介護が上手くいっているのは、当事者が円の中心にいて、周囲を家族や専門職がサポートしながら一緒になって悩んで決めているケースが多かったように感じます。

"お世話"よりも"きっかけ"

これが分かると介護する側も介護される側も、表情が変わります!

ぜひ頭に入れておいてくださいね。

しつこいけど微差が大差ですから(笑)


 
 

E介護とは「寝たきりにしない」こと
 
 ■そもそも「寝たきり」って何?

最初に質問です。

良く使われる言葉に【寝たきり老人】なんてものがありますが、そもそも【寝たきり】とは具体的にどんな状態のことを言うのでしょうか?

皆さんで考えてみましょうね!

思いつきましたか?

「1日中寝ている」なんて答えは最初に出て来そうですね。

あとは、「病院では寝たきりで過ごした」なんて人もいるでしょうね。

では、1日中寝ている人のことをすべて【寝たきり】と呼ぶのでしょうか?



でもこれは少々無理がありそうですね。

そもそも休みの日に1日中寝ているくらいで【寝たきり】とは言いませんし、 引きこもりやニートの若者がいて仕事もせずに1日中寝ていたとしても【寝たきり】とは呼びませんよね。

せいぜい「しっかりしろ!」と怒られるか、ほっとかれるか位です。寝るのが仕事の赤ちゃんも【寝たきり】とは言いません。

寝たきり少年とか寝たきり青年なんて言葉も聞いたことがありませんし、 寝たきり中年とか寝たきりおばさんなんて言葉も聞いたことがありません(笑)

しかし、【寝たきり老人】は何故かしっくりくるという…



では何故お年寄りだけが【寝たきり】なんて言われるのか?



例えばこう考えてはどうでしょうか?



【起きて活動出来ているか】が【寝たきり】と言われるかどうかの違い



高齢になれば、老いや病気による認知症や障害で【起きて活動出来なくなる】比率が多いから、 【寝たきり老人】と言われることが多いのではないでしょうか。

引きこもりでもニートでも【起きて活動しよう】と思えば出来ますよね…ただその気がないだけで。

対して老人の方はどうでしょうか。

高齢でも心身の機能が元気であれば、普段は寝ていても【起きて活動出来る】から【寝たきり】とは言えないけど、老いや病気による認知症や障害で心身の機能が衰えていれば、 自分一人で【起きて活動出来ない】ので【寝たきり】と言われてしまうのかもしれません。

そう考えると年齢に関わらず、【認知症】【障害】があれば、【寝たきり】になる可能性があるということになりますね。





では、【起きて活動する】【活動】って具体的には何でしょうかね?



普段から1日中ベッドにいる引きこもりの方や、休みの日は1日中ベッドにいる人でも起きてする活動と言えば何でしょう?



そうです、 【排泄】や【食事】や【入浴】です。



例えベッドや布団で過ごす時間が多くても、起きて

【排泄】や【食事】や【入浴】が出来ているかが「寝たきり」かそうでないかの違い

です。

つまり
【寝たきり】とは

【寝たまま】で 【排泄】や【食事】や【入浴】をすること


を言います。

もう少し詳しく言うと、【寝たきり】とは

寝たまま 【オムツを変えてもらう】 こと

寝たまま 【食べさせてもらう】 こと

寝たまま 【お風呂に入れてもらう】 こと

です。



オムツや食事は寝たままで出来そうなのは介護を経験していない人でも何となく分かると思います。 しかしお風呂に寝たまま入れることを知っている方は一般にはあまりいないのではないでしょうか? 何百万円もする高価なお風呂です。



「へ〜ぇ便利で楽ちんですね」



なんて言っている場合ではないですよ(笑)

実はこれ「寝たきり」なんですよ。

単純な結論ですが、介護をする人にとっても介護を受ける人にとっても、実はとても基本的で大切なことになります。

必ず覚えておきましょうね!

 ■「寝たきりにしない」とは?


【寝たきり】とは

【寝たまま】で 【排泄】や【食事】や【入浴】をすること でしたね。

ということは、「寝たきり」にしないためには、この反対のことをすれば良いですね。

【寝たまま】の反対は【座ったまま】です。

要するに、
【寝たきり】にしないとは

【座って】 【排泄】や【食事】や【入浴】をすること
になります。

そしてこれが次のコンテンツの「尊厳を守る」に大切な意味を持ってきます。


 
 

F介護とは「尊厳を守る」こと
 
 

■そもそも【尊厳】って何だろう?


このコンテンツでは、【尊厳】について考えてみたいと思います。

一般によく言われることですが、認知症になると【尊厳】も何もないから嫌だとか、恐ろしいとか、死んだほうがましだ…とか言われます。

例えば、子供の名前が分からなくなったり、自分の便を触ったり、暴言を吐いたり暴力をふるったり…または昼と夜を間違えたり、自分の家なのに「家に帰る」と徘徊を始めたり…。

たしかにTVをはじめとするマスコミで報道されることはセンセーショナルな場面や出来事ばかりを取り上げて視聴者の興味を引こうとするので、そう思ってしまうのも無理はありません。

しかし、介護の現場を知っている私たちからすると、認知症になることが良いなどとは少しも思いませんが、そこまで極端な反応をするのも「ちょっと待ってほしいなぁ!」と言いたくなります。

「そもそも人の【尊厳】てなんだよ?」と言いたくなるのです。

また、介護の現場では【尊厳】という言葉はしばしば【プライバシーを守れ】とか【言葉遣いや接遇をきちんとしろ】とか【コミュニケーションを大切に】といった内容で語られることがあります。

もちろんこう言った主張がすべてにおいて間違っているとは言いませんが、私たちの言いたいのは、【プライバシーを守れ】とか 【言葉遣いや接遇をきちんとしろ】とか【コミュニケーションを大切に】という前にすべきことがあると思うのです。


【尊厳】を広辞苑で引くと「尊く厳かで、侵しがたいこと」記されています。

これをふまえると「人間の【尊厳】」とは「人間とは尊い存在であること」と考えることができますよね。

つまり【尊厳】が守られている状態とは「私は価値のある人間だ」と「思える状態」であると私たちは考えます。

逆に【尊厳】が守られていない状態とは何でしょうか? 単純に、守られている状態の逆であると考えれば、

「私は価値のある人間だ」と「思えない状態」のことですよね。

つまり、認知症や障害があると「失ってしまうもの」があるから「私は価値のある人間だ」と「思えない状態」があることが「【尊厳】が守られていない」ということになります。

逆に言えば、「失ってしまうもの」を取り戻せば、【尊厳】が取り戻せるということになりますよね!

 

■認知症や障害で失ってしまうものとは?


認知症や障害になると失ってしまうものは何でしょうか?

例えば、認知症になれば直前のことを忘れることがあります。物忘れとも言いますね。記憶力を失うということになります。また脳梗塞や脳出血等で脳に障害を負えば手足の麻痺等、身体機能を失うことになります。

これらを取り戻せば【尊厳】が取り戻せるはずですが、そこには大きな問題があります。

それは、全てとは言いませんが、認知症や病気で失った記憶力や身体機能は完全に取り戻すことは難しいということです。 そして実は介護の役割は記憶力や身体機能を取り戻すことではない、ということです。

では、認知症や障害を持つと、【尊厳】を取り戻すことは無理なのでしょうか?

もちろんそんなことはありません。

しかし、その為には少しばかり視点を変える必要があるのです。

それは、「認知症や障害で記憶力や身体機能を失った」と考えるのではなく、「認知症や障害で新しい個性になった」と考えることです。

そして、認知症や障害で失ったものは、記憶力や身体機能ではなく、結果として普通に「暮らす」ことが難しくなったと考える必要があるのです。

人の個性を変えるのは難しいから、「新しい個性を活かして普通の暮らしを取り戻そう!」と考えることが大切になってきます。

少々強引かもしれませんが、このように考えないといつまでたっても前に進めません。

■取り戻したい普通の暮らしとは何か?


【尊厳】を守るとは認知症や障害で失った【普通の暮らし】を取り戻すことだとわかりました。 では【普通の暮らし】とは何でしょうか?

ここで、「寝たきりにしない」で出てきた

【寝たきり】にしないとは

【座って】 【排泄】や【食事】や【入浴】をすること

が意味を持ってきます。

そうです。これが答えなのです!

【普通の暮らし】とは【座って】【排泄】や【食事】や【入浴】をすること

なのです。

■まとめ・尊厳を守るとは?


認知症や障害になると記憶力や身体機能を失いますが、その状態を【尊厳を失った状態】とはとらえません。 それよりも記憶力や身体機能を失った状態を【新しい個性】ととらえます。
その【新しい個性】を活かして、認知症や障害になることで失った、【座って】【排泄】や【食事】や【入浴】をするという 【普通の暮らし】を取り戻すことが、認知症や障害になった人の【尊厳を守る】ということになります。


 
 

G介護とは「ありがとう」を言い合えること
 

■「ありがとう」を強制してませんか?


「お世話」をすれば「ありがとう」が返ってきます。

介護は「ありがとう」を頂ける仕事だから「やりがい」がある、という人もいます。

それはそれで間違いはありませんが、逆にこんなことはありませんか?

あのお爺さん(お婆さん)は、私がこんなに頑張ってお世話しているのに、″ありがとう″の一言もない。あの人には感謝の気持ちが無い…。

このようなことは介護の仕事をしているとよくあります。そしてご自宅で介護している場合でもあるのではないでしょうか? ご自宅での介護であれば、「身内なので照れくさい」ということあるでしょう。介護を受けているのが男性なら、プライドが邪魔して言えないということもあるかもしれません。

でも実は理由はそれだけではありません。

認知症や障害になって一方的に「お世話」をしてもらって「ありがとう」を言わなければならないことは、お年寄りにとっては【尊厳】が傷つけられた状態なのです。 だから「ありがとう」なんて言いたくないのです。当然だと思います。

前回、【尊厳】が守られている状態とは「私は価値のある人間だ」と「思える状態」である

とお話ししましたが、要するに一方的に「お世話」を受けていると「私は価値のある人間だ」と思えなくなってしまうのですね。

そうならないためにはどうすればよいのでしょうか?


 

■お互いに「ありがとう」を言える関係を作る


簡単です。「お世話」をして「ありがとう」を言ってもらうだけでなく、こちらが認知症や障害のある人に「ありがとう」を言える関係を作ることです。

具体的に言うと認知症や障害のある人に何か「役割」を持ってもらうことです。 どんな「役割」でもOKですが、注意点が三つあります。


  1. かつてやっていたことか、それに近いこと
    男性であればかつてやっていた仕事かそれに近い内容のこと。女性であれば家事や育児など。または男女とも長く続けてきた趣味があればそれに近いことが適しています。

  2. 今ある能力で無理なくできること
    かつては上手にできていたことでも認知症や障害になればできないこともあります。 できなければかえって「私は価値のない人間だ」と思ってしまうことにもなりかねないので、今の能力に合ったことをやってもらいましょう。

  3. それをすることで周囲から認められ感謝されること
    大切なのは「役割」をすることで「私は価値のある人間だ」と自分で認めることができることです。そのためには、周囲の介護者が、言葉や態度で「ありがとう、助かりました」と認めて、はっきりとオーバーなくらいに感謝する必要があります。



この三つを大切にして下さい。

特に大切なのは三つ目です。本当にオーバーなくらいに毎回感謝して「ありがとう」を言いましょう!

それだけで、介護する人・介護される人というどこか壁のある一方的な関係から、共に生きるパートナーのような人生の楽しさを共有できる関係になります

そして認知症や障害でできないことは気持ちよく「お世話」してあげて下さい。それと同じくらい介護する側が「ありがとう」を言える関係を作りましょう。

  

そうはいっても、できる役割が見つからなければどうすればよいのでしょうか?

「ありがとう」を言えることなんてない…

本当にそうですか?

生きていてくれてありがとう!

で十分じゃないですか?

だって この人のウンコが出たのが嬉しいとか、一口食べてくれたことが嬉しいというのは、介護をしている人ならば誰もが感じる感情のはずです。

そしてそれは

生きていてくれて嬉しい」と一緒ではないでしょうか?

恥ずかしがらずに何度も伝えてみて下さいね!

介護とは、介護する人と介護される人の二人で創るものです。 お互いに「ありがとう」と言いあえる対等な関係をつくって、二人だけの介護を創ってみてはどうでしょうか?



 

 
 
 
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